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そもそもなぜ論文を書くのか

そもそもなぜ論文を書くのか

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毎年膨大な数の研究が実施され、それに関連した論文が次々に出ています。しかし「論文を書く」という行為の目的はいったい何なのでしょうか?本項では、そもそもなぜ論文を書くのか、考えてみたいと思います。

 

論文を書く目的

研究者として、自分の研究成果を論文に残すということは、承認要求に対する目に見える答えという点で、研究者自身の本質的な欲求に近いものだと思います。
しかしなぜわざわざお金をかけて英文校正に出して、掲載料を払ったりしてまでして論文を書くのでしょうか?
エビデンスに基づく医療を提供するためにというのが最も大切な目的でしょう。
しかし、読まれてナンボ、という世界でもあるので、できるだけその分野の多くの人の目に触れるようなトップジャーナルに掲載されることを目標にするわけです。
そしていつしかそのことが目的に変わってしまうことがあります。ただ漠然と、

エビデンスに基づく医療のために

といわれてもどんなエビデンスを提供しうるのか、そこからまずは整理してみましょう。

 

  1. 新しい治療法の効果を検証する
  2. 疾患の発症や進行の要因となるものを明らかにする
  3. 新しい診断方法の精度を評価する
  4. 治療法のリスクとベネフィット(費用対効果など)を評価する

 

こういったところを原著論文では明らかにしていくのですが、非常に珍しい疾患、経過をたどった疾患、あるいは(たまたまかもしれないが)うまくいった症例などに関して、個別性の高い症例報告も重要なエビデンスを提供してくれます。
原著論文では大勢の患者さんのデータを使って一般化していく作業ではありますが、個々の患者さんを診ているときに得られた知見を一般化していくフェーズでもあります。
このようにして有益な情報を医療の現場に還元することができれば研究者冥利に尽きる、という話ですが、実際にはいろいろな邪なモチベーションが働くものです。

 

目的から手段に…

現場に還元できる知見を発表することは、なかなかできるものではない、という現実があります。

  1. High impact journalに掲載することが目的となる
  2. 結果の出そうなテーマに飛びついて研究を開始する
  3. 結果の重要性よりも論文数、業績を重視する

 

これらは明らかに悪いことではありません。現実には多くの研究施設で日常的になっていることも事実です。
しかし、上記の状態に陥っていることを自覚している場合と、無自覚でいるのとでは大きく異なると思われます。

 

原則としてすべて出版されるべき

このことの弊害として言われていることの一つとして、結果が未公表なランダム化比較試験が非常に多い、ということがあります。
一つの介入研究を実施するには計画段階から考えると「億」単位のお金が動きます。例えば新規薬剤の効果を示すための研究を行ったとき、その結果が芳しくない場合、推奨薬剤として世の中に認めてもらえないことになります。
そこでその結果を敢えて報告しない、というプラクティスが起こりえます。
そして臨床研究の90%を占める非介入研究においてはなおさらそういった傾向がありうるだろう、という状況は想像に難くはありません。これは出版バイアスと呼ばれます。
近年ではClinical trialを登録しておくシステムが普及し、そういったシステムに事前に登録したものでなければ介入研究の論文を受け付けないジャーナルが増えてきました。
しかしそれは主に介入研究や前向き観察研究にとどまり、研究全体をカバーするところまではいきません。また国によっても考え方が違うということもあり、全世界的に広まっているというわけでもありません。
近年わが国においても、ガイドラインを作成する際には、システマティックレビューを実施する、という学術団体が増えています。そのシステマティックレビューの方法論として、出版バイアスを疑えるような手法もありますが完全なものではありません。

つまりは研究者自身の良心にゆだねられる部分であるといえます。

 

最後に

いかがでしたでしょうか?論文を書く目的について、深く考える機会がなかった方にとってはじっくりと考える良い機会になったのではないでしょうか。ともすれば我々研究者は本来の目的である、良質なエビデンスを医療に提供するということを忘れがちです。無自覚でそれを行うことはいつか目に見える形で我々人類がその被害を被るかもしれない、という広い視点で物事を考える必要があるのではないでしょうか。